昭和13年12月、創業時は従業員二名(職人さんの斉藤さん、見習の都築幸太郎さん)とで、さらなる飛躍を目指して、機械加工の仕事に励みました。 しかし、昭和12年に勃発した日中戦争から軍事色が強くなっており、昭和14年5月22日、乙種合格の永井政一に召集令状が届きました。教育召集の白紙でした。 「6月22日目黒の近衛輕重聯隊に入隊せよ」とのこと。輕重隊は兵站(兵器、食糧、衣料などの運搬管理に当たるの)任務で、当時は一段低く見られていて、悔しい思いもされられたそうです。 習志野陸軍演習場での初年兵の一か月の教育訓練後、7月22日近衛輕重聯隊に応召、26日第九陸上輸送隊に転属、戦地へ赴きました。 品川駅で両親親戚と面会でき、お世話になったお礼と工場のことなどをお願いして、広島から船で、釜山、上海付近、揚子江を遡行して武昌に上陸しました。 南昌勤務から第一線基地の漢口より上流の沙洋鎮に進出、重慶から飛来する戦闘機が襲い掛かり、機銃掃射を避けて退避壕に逃げ込む状態が続いていました。 昭和18年11月4日野砲第四十三聯隊転属となり、12月下関から名古屋へ、昭和18年12月30日召集解除となり、4年6か月ぶりに家族との再会を果たしました。 帰還し永井機械製作所の再建に努力しました。 そのころは、機関砲の真管つくりに転換していて何とか工場は息を吹き前しました。 しかし、僅か7か月後赤紙が届きました。 昭和19年7月30日東部第六部隊に応召、南方作戦に参加する戦車隊でした。 陸軍兵長として加わり、戦車壕を掘る日々でしたが、第六部隊西川隊が11月1日レイテ島に向けて出航しましたが、政一を含み一部は東部第九部隊に転属、その後召集解除となりました。 政一は軍隊とは運隊、神に感謝するほかはないと言っています。除隊後は、お国のため、真管つくりの事業拡大に奔走しました。始めた当時の二名も兵隊にとられ、働き盛りの男はほとんど兵隊にとられており、女性でも扱いやすい卓上ターレット旋盤を導入して女子工員10数名で、夜は家族で真管を検査したりチェックしたりで工場は息を吹き返しました。 昭和20年8月15日終戦を迎え、真管はスクラップ、納品の代金も凍結で女子工員に給料を払うの精一杯というありさまでした。それから生きるのに必死の毎日でした。 いろいろ考えた末に、農村でほしがられていた精米機、製粉機、家庭用製麺機の製造に乗り出すこととしました。 そのころ工員さんも復員して、昭和24年には工場を株式組織に改め、食品機械メーカー永井機械製作所をスタートしました。 創業者永井政一の設計した、「永井式家庭用製麺機」は、その性能とデザインの良さが好まれ、川口市内の金物屋さん、全国の問屋さんから注文が殺到し、永井機械製作所はなんとか危機を脱することができました。