なぜ機械工場を始めたのですか

はい、創業者永井政一の父、徳次郎は、「職人には、学問は要らない。腕を磨くことが大切だ。」と考え、尋常高等小学校を卒業すると、機械いじりが好きだったこともあって、川口市内の鉄工所に、見習工として働くことにしましました。 創業者永井政一は、見習工として働いているときに、「いつかは独立して自分の工場をもとう」と考えました。 自立するには勉強も大事だと思い、川口公民学校夜間部の機械科に学びました。鉄工所が倒産したので次の奉公先を見つけて、見習工として3年間勤め、その後2か所の鉄工所にお世話になり旋盤技術や仕上げをさらに磨きました。 そして、昭和13年自宅庭の片隅に機械加工を行う工場を建設し独立しました。間口二間、奥行き三間の広さ6坪で、従業員二名の小さな工場でしたが、夢がやっと実現しました。 父、徳次郎は、長兄の興した永井鋳造所に職長として務めていましたが、「天覧の七輪」や「大倉金庫の扉」などを開発して鋳物技術者として知られていましたが、自立の希望もあったようでした。 しかし、独立には「兄弟が同じように鋳物工場を経営してライバルになり、仲違いしてはいけない」と、親戚をはじめ周囲の声も強く、断念したこともありました。また、長兄幸太郎の興した永井鋳造所を継いでいた、徳次郎の兄の惣次郎伯父も「鋳物工場の設立は認めるわけにはいかないが、機械工場ならよいだろう」といって賛成してくれました。 創業者永井政一は、さらなる飛躍を目指して機械加工の仕事に励みましたが、前年の昭和12年には日中戦争が勃発し、国家総動員法が施行されるなど軍事色が強まっていました。